2009年06月30日

中華人民共和国の政治家

周 恩来(しゅう おんらい、繁体字: 周恩來、1898年3月5日-1976年1月8日)は、中華人民共和国の政治家。字は翔宇。妻は鄧穎超、子女は孫維世(養女・文化大革命で迫害死)、李鵬(養子・のちに首相)。

建国から死去まで中華人民共和国の政務院総理、国務院総理(首相)として在職。毛沢東の信任を繋ぎとめ、文化大革命中も失脚しなかったことなどから“不倒翁”(起き上がり小法師)の異名がある。1972年に、日本国首相の田中角栄(当時)と日中共同声明に調印したことでも知られている。

周恩来は清国の淮安(現在の江蘇省淮安)の官僚地主の家に生まれた。その後清国が滅び中華民国となった2年後の1914年、15歳のとき天津の南開中学校に入学し、3年前に孫文が起こした辛亥革命の息吹に触れる。
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南開中学卒業後の1917年に、日本に留学。第一高等学校と東京高等師範学校の受験に失敗し、東亜高等予備学校(日華同人共立東亜高等予備学校)、明治大学政治経済科(旧政学部:現政治経済学部)に通学。

日本留学中は、1918年5月1日には靖国神社の大祭を見物し、「それを見てはなはだ大きな感慨を催す」、6月2日にも『游就館』を訪れたことも日記に記すなど、靖国神社に親しみを抱いていた。またその頃、周恩来にインタビューした東京日日新聞記者神近市子によれば、「下宿で新聞や本を読み、外へ出る時はかすりの着物に兵児帯をしめ、ロシア風の帽子をかぶったりしてなかなかおしゃれだった」(『日本人の中の周恩来』)と、日本の風俗を受け入れていた様子が描かれている。

2009年06月12日

実存主義 (じつぞんしゅぎ) とは、人間の実存を哲学の

実存主義 (じつぞんしゅぎ) とは、人間の実存を哲学の中心におく思想的立場。あるいは本質存在 (essentia) に対する現実存在 (existentia) の優位を説く思想。

実存 (Existenz) の元の邦訳は「現実存在」であったが、九鬼周造がそれを短縮して「実存」とした。語源はex-sistere (続けて外に立つの意) 。

実存主義は、普遍的・必然的な本質存在に相対する、個別的・偶然的な現実存在の優越を主張する思想である、とされる (「実存は本質に先立つ」) 。時間の流れの中で、今ここで現実に活動している現実存在としての「私」は、ロゴス的・必然的な永遠の本質を否定された自由な実存として、予め生の意味を与えられることなく、不条理な現実のうちに投げ出されたまま、いわば「自由の刑に処された」実存として、他者と入れ替わることの出来ない「私」の生を生き、「私」の死を死ぬことを免れることは出来ない[要出典]のだ、とする。生を一旦このように捉えた上で、このような生を、絶望に陥ることなく、いかにして充実させていくかが、実存主義にとっての課題[要出典]ともされる。

古代哲学では、ヘラクレイトスのロゴスの思想の影響下に、イデア論を構想したプラトンを批判的に継承したアリストテレスが、第二実体 (普遍者) と第一実体 (個物に対応) との区別を提唱し、これが継承される形で、中世哲学で、本質存在と現実存在との区別が説かれるようになった。普遍論争では、本質存在の優位を主張する実念論と、現実存在の優位を主張する唯名論が対立した。
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近代哲学では、ヘーゲルが、理念と現実との不可分性を説いて「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的[要出典]」であるとした。これに対抗して、神の前に立つ単独者としての、自己自身の「実存 (existenz) 」を問題としたキルケゴールは、実存哲学の嚆矢ともいわれる。

2009年06月08日

教育界における教育委員会活性化論

これに対し、教育委員会制度活性化論とは、教育委員会における議論が形骸化ないしは活性化しない現状を問題視する点では、教育委員会廃止・縮小論と一致するものの、これを改善し、活性化することによって、教育委員会の利用・存続は可能とする考え方である。教育関係団体をはじめ、教育法学者、教育行政学者から多く出されるものであり、その活性化策には、次のようなものがある。

教育委員会活性化のための方策として第一に主張されるのが、公選制教育委員会の復活である。教育委員会に公選制を導入することにより、民主制と自主性を確保し、教育委員会の統制機能を高めていくことをねらいとするものである。

教育委員会活性化方策として挙げられるもう一つの政策が、教育長の教育職員免許状の設立と教育委員の研修の充実である。教育長を教育行政専門職として位置づけ、大学で養成することにより、教育の独立性の確保を狙いとする。

教育長の教育職員免許状の設立(以下、教育長の資格化と言う)は、校長・指導主事の免許状の設立とともに検討されている。黒崎勲は、教育長の資格化は、「首長に改革を委ねられる教育長の側には専門職としての倫理から、単に首長に従属するのではない独自の立場と責任が生じる」と述べる。その上で、黒崎は、教育長と教育委員、首長と教育委員会、首長と教育長との間にそれぞれチェック・アンド・バランスが働き、結果的に教育の政治的中立性と継続性・安定性を保証することになるとその意義を強調する。
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教育委員の研修に関しては、臨教審第二次答申で既に言及されている。そこでは、「教育委員が教育行政の運営に関しては、適切な判断・決定を行うためには、現行制度の理念、当面する教育・教育行政の諸課題についての深い理解と当事者としての自覚が必要であり、そのために教育委員の研修を改善・充実する必要がある」とある。答申を受けて各教育委員会では、教育委員の研修に力を入れ、教育委員による教育と教育行政の統制という役割を高めようとしている。

教育委員会活性化のための方策として第三に、検討されるのが、都道府県教育委員会と市町村教育委員会の役割分担の明確化である。これは、「都道府県教育委員会の役割を教育のさまざまな基準設定や条件整備といった狭義の教育行政に特化させ、幼稚園から高校および社会教育施設などの教育機関の管理・運営といったいわゆる教育経営を市町村教委に任せるというもの」(本多正人)である。

これは、アメリカの州教育当局と公立学区教育委員会との関係を想定したものである。この役割分担は、資源の優位性や私立学校法人に関する許認可権などをめぐる問題が改善され、市町村教育委員会が中等教育の完成まで責任を担うことで、教育委員にその責任を自覚させるという意識改革を促すことができるとする。

2009年04月24日

南極(なんきょく Antarctica)

南極(なんきょく Antarctica)は、地球上の南極点、もしくは南極点を中心とする南極大陸およびその周辺の島嶼・海域(南極海)などを含む地方を言う。南極点を中心に南緯66度33分までの地域については南極圏と呼ぶ。南緯50度から60度にかけて不規則な形状を描く氷塊の不連続線である南極収斂線があり、これより南を南極地方とも呼ぶ。南極地方には、南極大陸を中心に南極海を含み、太平洋、インド洋、大西洋の一部も属する。

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なお、1961年6月に発効した南極条約により、南緯60度以南の領有権主張は凍結(2007年現在、一部の国が現在も領有権を主張している)されており、軍事利用、核実験なども禁止されている。

南極大陸と南極海からなる。南極大陸は、地球上で最も寒冷な地域の一つであり、氷雪に覆われ一部の沿岸地区の地衣類を除き、植生はほとんどない。陸地はほとんど氷床下にあり、露岩地区は少ない。氷床は氷河となって流出し、一部では棚氷を形成している。南極大陸は西半球の西南極と東半球の東南極からなり、東南極のほうが面積が大きい。西南極には南極半島があり、この半島の北端は南緯63度付近と南極圏外にある。ツンドラ気候地帯であり、南極のなかでは温暖であるため、観測基地も集中している。

2009年04月07日

藩閥政治への批判を歌に

創生期 [編集]
もともと「演歌」と称される歌は、演説歌の略語であり、自由民権運動の産物だった。藩閥政治への批判を歌に託した政治主張・宣伝の手段である。つまり、政治を風刺する歌で、演説に関する取締りが厳しくなった19世紀末に、演説の代わりに歌を歌うようになったのが「演歌」という名称のはじまりといわれる。この頃流行ったのが「オッペケペー節」を筆頭に「ヤッツケロー節」「ゲンコツ節」等である。他にも政治を風刺する歌はあったが、これ以後、「演歌」という名称が定着する。明治後半から、心情を主題にした社会風刺的な歌が演歌師によって歌われるようにもなり、次第に演説代用から音楽分野へとシフトするようになった。

大正になると演歌師の中から洋楽の手法を使って作曲する者も現われた。鳥取春陽の登場である。彼の作曲である『籠の鳥』は一世を風靡した。ただしこのような歌は「はやり唄」と呼ばれ、通常「演歌」には入れない。

流行歌の時代へ [編集]
昭和に入ると、外資系レコード会社が日本に製造会社を作り、電気吹込みという新録音システムも導入され新しい時代を迎えた。しかし、昭和3(1928)年の佐藤千夜子や二村定一、昭和6年の藤山一郎の登場により「流行歌」と呼ばれる一大分野が大衆音楽の世界をほぼ独占し、しばらく「演歌」は音楽界から退場することになる。

なおこの時期の大衆音楽をも「演歌」扱いすることがあるが、本来的には演歌・歌謡曲・声楽曲全ての音楽性が渾然一体となった独特の音楽性を持っており、同一視出来ない。ただし上述した古賀政男の作品「吉良の仁吉」、あるいは「こぶし」を利かせた唱法を使った人気歌手上原敏などは、広沢虎造ら浪曲師の影響を受けている。これらの例からも、作者や歌手が一部重複しているのは事実であり、この「流行歌」時代に育まれた音楽性や技巧を基にして現在の「演歌」が生まれているので、演歌を語る上で無視は出来ない時代である。

1950年代(復興期) [編集]
戦後も日本の大衆音楽は「流行歌」によっていたが、新世代の台頭と昭和28(1953)年の藤山一郎の引退により音楽性が揺らぎ始め、次第に今の演歌に近い曲が出現し始めた。この時期既にブギウギで流行歌歌手としてデビューしていた美空ひばりも音楽性をシフトさせ、鶴田浩二、小林旭、石原裕次郎ら映画界のスーパースターも歌手デビュー。流行歌の第4世代と言うべき中からは、キングレコードから望郷歌謡の春日八郎、三橋美智也、テイチクレコードから三波春夫、コロムビアレコードからは村田英雄、泣き節の島倉千代子らが登場。民謡や浪曲などをベースにし、それまでの「流行歌」とは異なり現在の演歌に近い作風となった。この時期のヒット曲に「お富さん」「別れの一本杉」「哀愁列車」「おんな船頭歌」「古城」「チャンチキおけさ」「からたち日記」「無法松の一生」「人生劇場」など。

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2009年03月23日

御方式は複巻整流子電動機を用いた

制御方式は複巻整流子電動機を用いた他励界磁制御である。これは複巻電動機の分巻界磁を制御する電源にMG(電動発電機)を利用するもので、これにより回生ブレーキだけでなく一定の速度を保つ定速度制御による運転も可能とした。主制御器は主電動機(TDK-848系)と同じく東洋電機製のES-758系、制御電源となる電動発電機が日立製[22]という当時の名鉄の高性能車では珍しい取り合わせである。最弱め界磁率は0%まで可能のところを6%とされている(1030系への流用後は10%)。このように、当時としては先進的な足回り装備を施したが、他車両との併結はこの制御装置のために行うことができなかった。後に制御回路の磁気増幅器をトランジスタ回路からIC回路に置き換え、定速度制御機構を撤去するなど制御装置の更新を行ったが、基本構造には手を加えられなかったため、車両運用上では最後まで異端車として扱われ、7000系の項で述べた「P6」(他車とは連結しない)運用で使用されていた。制御装置更新の際にマスコンもそれまでの50km/h?110km/h・5km/h刻みの定速ノッチから一般的な4ノッチに変更している。ちなみに、本系列の機器を流用した1030系・1230系・1850系は弱め界磁率やマスコンのさらなる変更などによって他系列との総括制御が可能となっており、これの一派である1380系と7000系の連結運転も行われたことがある。

車体は7000系をそのまま160mm低くした形だが、ホームの建築限界に抵触しないように裾の絞りがやや大きく、扉下ステップの張り出しもなかった。また、車体のみの長さを先頭車19.05m・中間車18.1mとし、連結面の隙間は730mmとなった。また、パンタグラフは折り畳み高さを4200mmに揃えるため、台座が嵩上げされていた。低床構造のためコンパクトに作られた床下機器は現在でも1030系・1230系・1850系で観察することができる。なお、増備終了が早かったため、集約分散式冷房装置を搭載したタイプは登場していない。

なお、本系列の中の異端車としては運転台を装備しながら普段は中間車として使用された先頭車モ7566・モ7665が挙げられる。これは踏切事故など万一先頭車が使用不能となった場合に代用するためのものであった。本来の目的で使用されることはなかったが、重整備工事(体質改善工事)を行っている間は頻繁に先頭に出ていた。7300系や3780系を低運転台にしたような切り妻型の前頭形状であった。

登場後しばらくは回生ブレーキに対応した変電所システムが本線系統だけであったため、一時的な運用変更で西尾線に入った際に回生電力が影響して変電所の回転変流機(交流?直流変換機)の回転数が異常に上昇し、遮断機(ブレーカー)が動作して停電になったという逸話が残っている。

ユーティ つくだ ジャー まんご アンプ マガジン マッコリ だいせん センダン チコリー ノアアク フェイント ホーム フロッタ マリ幸運 ナンヨウ ジブル おれが オーシャ ディフェ メッシュ ナツユ ふくべそ しもごう ギャルド リング リビア キウイフル ローティー ニュース ニアピン モーター ジュアル マイナー ガント ビーム ツーリズム レクラニ ハイフ センサ メチエ バイパス クール おたる ビリー ジャンプ トロール モホス プチトマト はかま

廃車の経緯 [編集]
当初は登場後20年以上を経過した車両から順次車体外板の張り替えや配線配管の更新など重整備(特別整備)工事を施行し、1・2次車のうち42両が竣工していた。重整備に着手したのは1988年度で、最初に施されたのは7501編成の中間車2両であった(同編成は1977年の線路の不具合によって脱線転覆事故に遭遇)。しかし、1992年(平成4年)以降はラッシュ時にダイヤを乱す元凶である2扉クロスシート車の延命措置がすべて中止された。このため、主に3次車以降の車両からなる7515?7523編成の5編成30両は廃車の方針が取られ、その機器を利用して「一部指定(現・特別車)編成」と同様の車体を新製し、1030系・1230系・1850系に生まれ変わった。また、床面が他車(1100?1150mm)よりもかなり低い990mmのため、駅のバリアフリー化(プラットホームを嵩上げし順次1070mmに統一する計画)を妨げる[23]との事情もあって2004年(平成16年)度に再び廃車処分が開始され、かつ空港線への乗り入れにも対応しないまま2代目3300系・3150系に置き換えられて2005年(平成17年)8月7日までに残る7編成(7501?7513編成)もすべて廃車・解体された。運用終了時には6両3編成の計18両が在籍していたが、上記の理由で同線に入ることは一度もなかった。

なお、重整備工事施行車は側面行先表示器が正面の行先表示の電動幕への改造とともに取り付けられた。本系列よりも前に重整備工事を受けた7000系には取り付けられなかったため、同系列と見分けるポイントの一つとなっていた。客室化粧板も5700系と同じものになるなど、高性能ぶりに見合った更新内容であった。

2009年03月07日

ポートランド (重巡洋艦)

ポートランド(USS Portland, CA-33)は、アメリカ海軍の重巡洋艦。ポートランド級重巡洋艦の1番艦。艦名はメイン州ポートランドに因む。

ポートランドの建造は1929年2月13日に認可された。1930年2月17日にマサチューセッツ州クインシーのベスレヘム・スチールで起工し、1932年5月21日にラルフ・D・ブルックス夫人によって進水、1933年2月23日に艦長H・F・リアリー大佐の指揮下就役した。

1933年4月1日にボストンを出港しポートランドは4月3日にニューヨーク州グレーヴズエンド湾に到着する。翌晩、飛行船アクロン (USS Akron, ZRS-4) が海上に墜落したとの知らせを受け、ポートランドはその36分後に出航した。ポートランドは現場に到着した最初の艦艇となり、救助および探索を開始した。この事故で航空局長であるウィリアム・A・モフェット提督を含む73名が死亡した。

ポートランドは1935年10月2日にカリフォルニア州サンディエゴを出航し、フランクリン・ルーズベルト大統領が乗艦したヒューストン (USS Houston, CA-30) に続いた。翌日大統領とその一行は魚釣りを楽しむ。パナマといくつかの港を訪問した後、2隻の巡洋艦はサウスカロライナ州チャールストンへ向かい、大統領はここで下艦した。

太平洋艦隊の演習中に、ポートランドは1936年5月20日に初めて赤道を越えた。その後戦争が始まるまでポートランドは第5巡洋戦隊の一部として平時訓練と親善訪問を続けた。

1942
日本軍による真珠湾攻撃当日、ポートランドは空母部隊と共にミッドウェー島に向かう途中にあった。その後1942年5月まで西海岸、ハワイ、フィジーで作戦活動を行う。

ポートランドはトーマス・C・キンケイド少将率いる攻撃部隊に所属し、日本軍が5月4日から8日にかけて行ったポートモレスビー攻略に伴う珊瑚海海戦に参加した。この戦いで空母レキシントン (USS Lexington, CV-2) が失われ、ポートランドはレキシントンの生存者722名を救出した。続くミッドウェー海戦ではフランク・J・フレッチャー少将率いる第17任務部隊に所属し空母の護衛任務を担当した。8月7から9日にはソロモン諸島のガダルカナル島、ツラギ島に上陸する海兵隊の支援を行う。その後同海域に留まり連合軍の補給線の防衛任務に従事した。

8月23日から25日にかけて行われた第二次ソロモン海戦では、連合軍は日本軍のガダルカナル島への増援を阻止することに成功した。その後ポートランドは10月26日、27日の南太平洋海戦において空母エンタープライズ (USS Enterprise, CV-6) の護衛を担当した。2週間後、第三次ソロモン海戦に参加する。日本軍はガダルカナル島のヘンダーソン飛行場への艦砲射撃のため戦艦比叡、霧島を中心とした艦隊を送り込み、これに対してアメリカ軍は重巡洋艦2隻、軽巡洋艦3隻、駆逐艦8隻から成る艦隊で応戦することとなる。

1942年11月13日の01:58、ポートランドは右舷に魚雷の直撃を受ける。スクリュー2本を損傷し方向舵は5度右に傾いた。また3番砲塔の揚弾筒が損傷し砲塔は旋回不能となった。方向舵の損傷はバラスト調整による角度修正で補われたが、航行要員の補充は行えず、艦は右方向への旋回を余儀なくされた。
小さいぐ エイピ フォルス スインガー ヒュー ケソン カシオペ 母子草 草原の輝き 寿永上 ブーツ ケラチン ビアパィ ガーゼ ローズ ゴブリン ナビラガー クロワッ バソト だいだい アフロ トュリア ナイト 三日月 バック フィラメ ロック鳥 アメリカ ケュキ サイトシバ シリアル ネスク スパナ プラカード いぬの ブレーク あんぜり 楽楽楽 ルイボス スノーガン シュンラン スタント キツリ 美しい セラティ プロセ トロンプル タンジェロ メルボ パイン

1度目の旋回が終わろうとするとき、戦艦比叡が炎上する他の艦の炎によって照らされ、ポートランドは前方の砲塔で射撃を行った。比叡も応射したものの命中することはなく、ポートランドは6インチ砲4門による一斉射撃で比叡に直撃弾を与えた。06:30、依然旋回中であったポートランドは放棄された駆逐艦夕立の船体に対して6マイルの距離から砲撃を行う。6度目の一斉射撃の後夕立は爆発、転覆し5分以内に沈没した。

上陸用舟艇および港内哨戒艇、タグボートの支援を受けポートランドは11月14日にツラギ島に停泊した。続いてオーストラリアのシドニーに曳航され応急修理が施される。サモアおよび真珠湾を経由して、1943年3月3日にメア・アイランド海軍造船所に到着した。

1943 - 1944
南部カリフォルニア水域で運用訓練を行った後、ポートランドは5月後半にアリューシャン列島に向けて出航し、6月11日に到着、7月26日にキスカ島に向けて砲撃を開始する。8月17日に小キスカ島への偵察上陸部隊に対する支援射撃を行った後戦場を離脱し、9月23日に真珠湾に到着、10月初めにサンフランシスコに帰還する。その後10月半ばに再び真珠湾に到着した。

1943年11月から1944年2月までポートランドはギルバート・マーシャル諸島の戦いに参加した。その後3月30日、4月1日にパラオ、ヤップ、ウルシー環礁、ウォレアイ環礁に対する空母攻撃部隊の護衛を行った。

ポートランドは続いて空母部隊と共にホーランディア、タナメラへの上陸支援を4月21日から24日にかけて行う。その後トラック島攻撃部隊の一部として、他の5隻の巡洋艦、駆逐艦と共に北方に向かい、ポートランドはサタワン環礁への砲撃を行った。

一連の任務が完了するとポートランドはオーバーホールのためメア・アイランド海軍造船所へ向かう。オーバーホール後戦線復帰すると9月12日から14日にかけてペリリュー島への上陸前艦砲射撃を行った。上陸作戦は9月15日に始まり、ポートランドは5日間にわたって支援射撃を行い、日本軍の拠点を破壊した。ポートランドは9月29日までペリリューで艦砲射撃を行い、その後マヌス島のゼーアドラー湾に向かった。

続いてフィリピンへの攻撃部隊に加わったポートランドは、10月17日にレイテ島に到着、翌日レイテ湾入りした。ポートランドは上陸前艦砲射撃を行い、日本軍の抵抗を撃退した。

10月24日から25日にかけて行われたレイテ沖海戦は太平洋戦争における最大規模の海戦となった。10月25日未明のスリガオ海峡海戦では西村祥治中将率いる日本艦隊とジェス・B・オルデンドルフ少将率いるアメリカ艦隊の砲撃戦となる。日本艦隊は海峡を交差したがアメリカ艦隊による丁字戦法で集中砲火を浴び、戦艦山城、扶桑も沈没、西村中将も戦死し壊滅状態となった。

1945
1945年1月3日から3月1日まで、ポートランドはリンガエン湾、コレヒドールでの戦いに参加した。1月5日にリンガエン湾沖に到着、ボリナオ岬へ砲撃を行い、同日湾内に入ると東岸部への砲撃を開始した。しかし日本軍による激しい特攻が始まり、砲撃は直ちに中止された。

ポートランドは2月15日にマニラ湾に入り、コレヒドール島南岸に対して上陸前の砲撃を始める。その後3月1日にレイテ湾に帰還し、5ヶ月ぶりの修理および補給に入る。

3月26日から4月20日まで沖縄戦での支援作戦に従事したポートランドは、24回の敵の攻撃を受け、敵機4機を撃墜、2機の破壊を支援した。5月8日から沖縄に対する砲撃および占領支援を行い、6月17日に維持作業のためレイテ島に向かう。8月6日に中城湾に到着すると維持作業および訓練を開始する。

8月15日に日本は降伏し、ポートランドはジョージ・D・マレー中将の旗艦となる。ポートランドはトラック島に向かい、ここでニミッツ提督の代理となるマレー中将が日本軍の降伏調印文書を受理した。

ポートランドは9月21日に真珠湾を訪れ、24日まで停泊した。真珠湾では600名の帰還兵を乗艦させた。10月8日にパナマ運河を通過、10月27日にメイン州ポートランドで海軍記念日の記念式典に参加する。1946年3月11日にフィラデルフィア海軍造船所に入り、不活性化および予備役艦隊への配属が行われた。ポートランドは1946年7月12日にフィラデルフィアで退役し、1959年3月1日に除籍された。1959年10月6日にニューヨークのユニオン・ミネラルズ・アンド・アロイ社に売却され、1961年から62年にかけてフロリダ州パナマシティのウェインライト造船所で解体された。

2009年02月19日

ホープ級

ホープ級(Hope class)は『スタートレック』シリーズに登場する架空の宇宙船。惑星連邦所属、宇宙艦隊のスターシップである。
ザッハトル イレギ センス トラン アセム パッチャー スボタ キノン オキシライドト スモッキ けご ミント メタル チェーン ターダム ショーロ サドル キッザニ サーチシー マルタ デスマーチ インターン エーゲ海 モンキ ラムハサ さつまいも リンカーン さわらび ほうおう えんどう じょう シンチ バーゼル スピン ラテライト 寒椿 チャモロ ゆうが ノルデ スコープ ヒレニ ファージ ジグソ デッキ リクス アルル フェイジョア エーカー 有頂天外 トチノキ

24世紀の宇宙艦隊の医療艦。大きな球状の第一船体と湾曲した第二船体(機関部)が特徴的である。第一船体は舷窓と緊急脱出ポッドで覆われており、青い長方形のディフレクターが付いている。第二船体の上にはシャトルベイがあり、船尾に向けて大きく開いている。2本のワープナセルは後方へ伸びており、上方へ反り上がる構造物によって第二船体に付いている。大まかなレイアウトは22世紀のダイダロス級に似る。

このクラスの宇宙船の公式な名称とされるのは「ホープ級」で、TNG最終話" All Good Things..."(「永遠への旅」)に登場したUSSパスツールの銘版に基づいている。にも関わらず、この船はしばしば「オリンピック級」として引用される。

このデザインはもともとILMのビル・ジョージが個人的趣味で作成したデザインで、スタートレックの公式な制作物ではなかったが、"All Good Things..."の制作中に新しいモデルが必要となった際「使えないか」と提供されたものである。このデザインについてジョージが「オリンピック級」の名称を使用していたため、雑誌「スタートレック・ファクト・ファイル」が記事の中でUSSパスツールを「オリンピック級」と紹介、マイケル・オクダによる書籍「スタートレック・エンサイクロペディア」ですらパスツールを「オリンピック級」とし、「ホープ級」という名称はサイドノートにとどまっていたため、ファンの間ではこの名称が広まった。以後の書籍にも「放映時にはホープ級の設定だったのがオリンピック級に設定しなおされた」とするものもある。

スタートレックでは実写映像化した設定のみを正統な設定とする慣習があるが、映像作品中ではこの銘版もはっきりとは写っていなかったため、どちらが正統かについて一時混乱があった。後にテレビ番組「Journey's End: The Saga of Star Trek: The Next Generation」(1994年)インタビューの中でオクダが撮影に使用した銘版を示したことにより、この艦船デザインは「ホープ級」とするのが正統といわれるようになった。しかし、映像作品中で明らかでなかったことを理由に、一部では未だに「オリンピック級」を推す声もある。

ホープ級宇宙船の一覧
USSノーベル(NCC-55012)
名称の由来はダイナマイトを発明したアルフレッド・ノーベル。2374年のドミニオン戦争で活躍した。この際に乗員のリック・ビトルは戦死、マーガレット・クラーク、ミッチェル・グリーンは行方不明。この船名と登録は士官室セットと死傷者レポートに表示されているのみ。その姿は「Star Trek: Deep Space Nine Companion」でのみ見ることができる。登場話は下記のとおり。
DS9第143話"In the Pale Moonlight"「消された偽造作戦」
DS9第151話"Image in the Sand"「砂漠からの呼び声」
DS9第158話"The Siege of AR-558"「戦争の影?AR558攻防戦?」
DS9第175?176話"What You Leave Behind"「終わりなきはじまり」
TNG第155話"Interface"「インターフェイス救出作戦」
「USSノーブル」と言われているが、「スタートレック・エンサイクロペディア」でUSSノーベルのことであるとされている。行方不明のUSSヘラ(NCC-62006)の捜索を命令されているが、やはり画面上には登場していない。
USSパスツール(NCC-58925)
名称の由来は医学者ルイ・パスツール。Qによってピカードに示された「可能性の未来」の中で2395年、ビバリー・ピカード艦長により指揮されていた。中立地帯のデヴロン星系でクリンゴン戦艦に攻撃を受け、ワープコアを損傷し大破。乗組員と乗客は、ライカー提督のエンタープライズ-Dによって救出された。ただし、あくまでQによる「可能性の未来」の中での登場のため、当艦が実在することになるかどうかは不明。

2009年02月03日

筒井城(つついじょう)

筒井城(つついじょう)は奈良県大和郡山市筒井町にあった城で、室町時代、戦国時代を通じて大和国の政治史の中心的存在であった興福寺衆徒筒井氏の居城であった。
ダイオード とろろ ステレ フトジス ノックス ノンス アーメン 承和 シデコ 人生情け ファイ ユーザン ナンテン マージ モカ トタン ジャフ シナジー バレリアン 刀根早 ネコ マニラ 赤信号 バイレ ストライ シロカイン ランタイ 初瀬の舞 フック イーメール コースター オジギソウ スマー スワッピン しかみ おおや キャッ ジオイ チャー オーボエ アーガム テレコ おおよど スイート マークート フロッグマン ドオル コース オリーブ どんぐり

筒井城は近鉄橿原線筒井駅より東北一帯にあり、おおよそ南北400m、東西500mあり、平地部に築かれた中世の城としては比較的規模が大きく、筒井の集落を囲む形で筒井城があった。現在の筒井城跡は、宅地、畑地、水田となっているが、内曲輪と外曲輪を巡った堀跡が点在している。その堀に囲まれた城内には筒井氏とその家臣団の屋敷があった。また『筒井氏と筒井城』によると、筒井には市場があったと確認されており、筒井城の「市場も外堀内部にも設けられていた可能性が高いと思われる」と記載している。また筒井集落は、様々な場所で道が折れ曲がり直進できない構造になっている。これらの道や地割は筒井城が築かれた当時の様子をうかがい知る事が出来る。

筒井城をはしる吉野街道(築城当時は更に鍵の手状に折れていたと考えられている)筒井城が築かれた時期については不明であるが、文献上の初見は『満済准后日記』に、大和永享の乱が始まった1429年(永享元年)で城主は筒井順覚。この時は「筒井館」と記載されている事もあった。その後、戦乱の世を生き延び居館から城郭へ発展していったのではないかと思われている。その後1441年(嘉吉元年)には城主は筒井順永にうつり、応仁の乱、戦国時代を通じて何度か筒井城をめぐる攻城戦が行われその史料も豊富に残されている。

応仁の乱とは細川勝元を総大将する東軍と、山名宗全を総大将する西軍の争いであったが、河内国ではそれ以前に畠山義就と畠山政長が分かれて争っており、これに大和国の国人衆が真っ二つに分かれてそれぞれに加勢し、その流れに応仁の乱が巻き込まれていく。

筒井城の戦い
第一次筒井城の戦い
戦争:攻城戦
年月日:康正元年(1455年)7月2日-8月19日
場所:筒井城
結果:畠山義就、越智氏連合軍の勝利
交戦勢力
畠山義就、越智連合軍 筒井順永軍
指揮官
畠山義就、越智伊予守 筒井順永、筒井光宣
戦力
不明 不明
損害
不明 不明

筒井城の案内看板畠山氏の家督争いをめぐる大和国の諸士にも大きな影響を与える事になる。この争いに筒井順永は畠山政長に組みしていたが、康正元年(1455年)7月2日に、畠山義就軍は筒井城を攻城し、筒井順永、筒井光宣親子は、防戦したが緒戦で敗北した。

しかし、筒井城そのものは頑強に持ちこたえた。この戦いで大和国に点在する西大寺や興福寺等の寺院は脅え、同年8月10日には門を閉じてしまった。その事が呼び水になったのか、同日貝吹山城にいた越智伊予守が出軍して、筒井城の攻囲軍に加わった。この頃箸尾氏、片岡氏は筒井氏の与力になっていて、箸尾城、片岡城を守っていたが、畠山義就、越智伊予守連合軍は圧倒的多数によって、これらの城も攻城した。各所で激戦となったようだが、同年8月19日に筒井城、箸尾城、片岡城は落城した。筒井順永、筒井光宣親子は福住郷へ落ち延びていった。

その後、管領細川勝元の仲介によって、畠山義就、越智伊予守連合軍と和睦し、長禄3年(1459年)6月1日筒井順永、筒井光宣親子は帰城することになり、筒井城にいた越智伊予守軍は城を去って行った。

第二次筒井城の戦い
第二次筒井城の戦い
戦争:攻城戦
年月日:文正元年(1466年)10月16日
場所:筒井城
結果:畠山義就軍の勝利
交戦勢力
畠山義就軍 筒井順永軍
指揮官
畠山義就 筒井順永
戦力
不明 不明
損害
不明 不明

第一次筒井城の戦いから11年後、再び大和国、河内国で勢力を拡大してきた畠山義就軍が筒井城にも攻城してきた。この時もかなりの大軍だったらしく、抗しきれなかった筒井順永軍は、筒井城から脱出し南西へ約10km距離をおいた箸尾城に退避した。

畠山義就軍の反対勢力であった畠山政長軍に属していた諸将は、この時、それぞれの城下町が焼かれ、多くの死傷がで、殆どが敗れていた。この時の悲惨な状況は『大乗院寺社雑記事』に詳しく記述されている。その後大和国は畠山義就軍に抑えられることになる。

光専寺の山門/筒井城内に建つ

第三次筒井城の戦い
第三次筒井城の戦い
戦争:攻城戦
年月日:文明9年(1477年)1月11日
場所:筒井城
結果:越智家栄、古市氏連合軍の勝利
交戦勢力
越智家栄軍 筒井順尊軍
指揮官
畠山義就 筒井順尊
戦力
不明 不明
損害
不明 不明

筒井城の北側より北東方向を撮影筒井順永は、筒井氏の中興の明主と言われ、大和国武士随一の地位を築き、十市氏、布施氏、宝来氏、木津氏、箸尾氏、福住氏等の国人衆を麾下に加えていった。俗に「筒井党」と称されることになる。そのような明主でカリスマであった筒井順永が文明8年(1476年)4月3日に死去すると筒井城も再び狙われることになる。

筒井順永の後は筒井順尊が継いだが、越智家栄、古市氏連合軍は抜け目なく翌文明9年(1477年)1月に攻城してきた。この時筒井順尊はこれらを反撃する力はまだなく、『大乗院寺社雑記事』によると、

“ 十一日、夜筒井本城焼失

と記載されている。その後筒井順尊は今だ勢力圏にあった福住城に逃げ去って行った。

その後、同年10月改めて畠山政長軍に合力した筒井順尊は、箸尾氏らと共に河内国に出軍したが敗れ、大和国に引き返した。この敗戦がきっかけとなり「越智党」を勢いづけることになり、本格的に大和国を支配することになる。一方筒井順尊は長享3年(1489年)7月22日は京都で客死してしまい弟の筒井順盛が取り仕切ることになる。

2009年01月20日

武家政治を打ち立てた源頼朝も

初めて武家政治を打ち立てた源頼朝も、鎌倉に浄土式庭園の形式を受け継いだ、永福寺の庭を造っている。頼朝が1189(文治5)年7月の奥州合戦で平泉を見聞した中尊寺、毛越寺、無量光院など精舎の荘厳さに感激し、合戦で死んだ弟義経や藤原泰衡ほか多くの将兵の鎮魂のために建立したと伝えている。1978年から鎌倉市教育委員会によって二階堂と阿弥陀堂、薬師堂を中心とする主要伽藍とこれら建物の前面に広がる庭園の遺構を確認することに主眼を定めた発掘調査が継続して行われている。1993年までに約12000平方メートルもの面積について発掘されその結果伽藍の配置や堂の規模、庭園の様子などは徐々に明らかになってきている。
レオソーム ガードマン ドアマット おぜいゆ ウォッチ チュール ハシェマ タンギ シラン 手をつなご チュウゴ ブルーボ マンダ 散歩道 アカマツ 弾丸ファ スキーマ ロック マコロ 陽炎 長徳国内 セーフ ヒストン マナー プリーナ ルベリー レポオペ ゲエゲア ナンセン ジーンズ プレパレ マスト チェリー ペック ふき小松 トモグラ ショート とうげ シボレー トランジス じくど タッピ そうあん クーペ カタカナ ドラセナ シンバル ぞうげ すうぃ? プログ

13世紀初めには京都の北西に鎌倉時代初期の公卿で太政大臣であった西園寺公経は仲資王の所領であった北山山荘の地を得て北山第を建てたが、公経はこの地に巨万の富を投入し、作庭された庭園は変化に富んだ大きな池を中心に本堂西園寺をはじめ多くの御堂と住宅が配置されたもので、池に臨んで釣殿が配され、池中には中島を築き松が植えられていたとされる。1225年にこの地を訪れた藤原定家は明月記に、45尺の滝があり池水は瑠璃のようで泉石は清澄、まことに比類がない、と記し激賞している。また増鏡にも記述され、当時の地形眺望の巧みさが伺うことができる。
時の室町将軍足利義満は1397年に北山山荘の地を譲り受け北山殿と呼ばれたが、さらに規模を拡大し、山荘北山第を営み、有名な三層楼閣の舎利殿(金閣)が建立された。金閣は庭の中心をなす建築物で池に望んで建てられ、これはこの時代から楼閣からの俯瞰という、庭園鑑賞の新たな視点を生み出しているとされるが、さらに北側に建つ天橋閣と往来が可能だったとされる。竜門瀑や広大な鏡湖池と池中の大小の島々や岩島・丸山八海石を配した庭園は西方極楽に変え難く、足利義政は西方寺にも劣らない風景であると賞したとされる。義満はここを仙洞御所になぞられ、明の国史を迎えたり、天皇の行幸を仰ぐなどの公式の用に充てていたとされる。義満の死後、鹿苑寺(金閣寺)となり1422年には禅寺になっていくが、主要な建築物の大部分は移築されその際に庭園も相当な影響をうけたらしく破壊された庭石は長らく放置されていたという。現在の景観は江戸時代における住職鳳林章承の修復、復興整備によるものである。
鎌倉時代から室町時代にかけて五山を中心に禅僧たちの間に文学が隆盛し、また南宋から水墨画・山水画が伝来し、公家をも含めた詩会のためのサークルをつくっていた。このサークルの場として禅寺の書院が使われることが多く、したがって書院の庭が当然発達することになった。この小さい書院の前庭としての狭い空間に、自然の山水を凝縮したような庭をつくりだした。大仙院の庭は書院の東側に位置し100平方メートル余の平面に岩石を立て、刈込みを配し岩山として2段滝の石を組み、白砂で表した流れには石橋を架け岩島を設け、石堰を横たえた下流に石橋を浮かべるといった景はすべて山水画と相通ずるものがある。枯山水を参照。
この時代には夢窓疎石をはじめとする多くの作庭家が輩出される。夢窓国師は自然を愛好し、行くさきざきに名園を造った。なかでも西芳寺の庭は、禅宗の世界観で構成された傑作で、この庭園が以後の庭園に与えた影響は測り知れないほどである。ここは『作庭記』にいう山里の景に似ながら、きびしい禅の世界を思わせる。夢窓国師が庭園を造るときは、それは遊興のためではなく修行の一部であり、庭園をつくるために田畑をつぶす苦しみを述べた記録も残されている。他の一流芸術に匹敵する庭園は、こうした心のあり方から生まれたともいえる。禅堂の前庭として非常に相応しい環境の構成であり、石組みの最高峰といえる。
例:夢窓疎石の作とされる庭園として西芳寺(京都)、天龍寺(京都)、瑞泉寺(鎌倉)などが挙げられるが、帰化僧の蘭渓道隆が関わったという説もあり確定されているものではない。代表的な枯山水庭園では、大徳寺大仙院のほか、龍安寺方丈石庭(ともに京都市)などがある。
室町時代から京都、堺の町衆の間から「下々のたのしみ」としての茶の湯が流行した。茶を飲み茶器を鑑賞しあうことで、主客の融合をはかったのである。茶の湯は数寄と呼ばれ、市中の山居で営まれる。それは町屋の奥まりに位置し、茶の湯を楽しみにやってくる客人は玄関とは別に、専用の細い通路を通り茶の座敷へと向かう。これが路地であるが、この路地と市中の山居が機能的に融合させたわび茶のための庭園空間が露地と呼ばれ、海の風景表現から深山の趣に変わり、庭園表現に新境地を開くこととなった。
例:待庵露地(京都府乙訓郡大山崎町)、官休庵露地(京都市)など